布団の中から、二度目の目覚め。
相変わらずこの家の布団は気持ちが良い。体の痛みを緩和してくれていることもあって、しばらくはこのまま起き上がりたくない。問題は眠気がすっかり影を潜めたことだった。
ただ、取りようによっては好都合でもある。いい加減に本腰を入れて考えるべきことがあるからだ。
即ち、何故自分がここにいて、自分が誰だかわからないのか。
これは由々しき問題ではないだろうか。その割には目についた妖怪や人外を相手に片っ端から相手にして弾幕勝負を挑んでたりするけれど。どう考えても勝機が薄すぎるし。勝機が薄いのに戦うのは何故か。その心は「正気も薄いから!」……って、やかましいわ!
……あれ? そういや、なんであの子らが妖怪や人外ってわかるんだ?
自分のこともわからないのに相手のことだけ分かるってなんか変だろう――。
おもちゃが散らかされた子ども部屋みたいに収集のつかない思考が燻っている。
ちょうど、目の前のタバコの、往生際の悪い火だねみたいに。誰が、タバコなんて吸ってるんだろう。
視線がタバコをもみ消している手に移り、白い袖をなぞって喫煙者の顔に辿りつく。
「おう、起きたか」
白髪の少女と目が合うなり、そう声をかけられた。
2秒ほど視線を交差させて、つい先ほど(のはず)勝負を申し込んで叩きのめされた相手だと気付く。
初対面で喧嘩を吹っ掛けるなど失礼にも程があることをやってしまった相手に話す言葉が見つからず、そのままそっと目を閉じた。枕に頭を沈ませる現実逃避行動全開の俺の頬を、藤原妹紅がつねり上げた。
「おい。起きたんだろうが」
「おふぁよふふぉあいまふ……」
「ああ、おはよう」
俺の顔を地上30cm程まで持ち上げていた手を挨拶と共に放した。枕に落下して、頬をさすっているのを一瞥して、ため息交じりに妹紅が呟いた。
「ま、そのまま寝てた方が幸せだったかもしれないけどな」
返事を待たずに妹紅が立ち上がって廊下へと出て行った。閉められた障子の向こう側、足音が遠ざかっていく。
彼女は一体何の話をしていたのだろうか。彼女の顔色からは「面倒事に巻き込まれた」というような心持が読み取れた。確かに俺は彼女にいきなり喧嘩を吹っ掛けて迷惑をかけたが、それ以上の何かがある気がした。
明確な理解に至らないまま、足音が戻ってきた。しかも2人分。
障子に影が映る。後ろについて歩く影は腰よりも地面に近くまで伸びた髪とそこに結えられたリボンで妹紅だと分かるが、先を歩く人物が誰だか分からなかった。帽子を被っているようであるが、身長は妹紅よりも頭一つ低いことから慧音でないことは間違いない。胸の前あたりに棒のようなものを持ち、支えでも入ってるかのようにしゃんと伸びた背筋は障子越しにも凛とした雰囲気を伝えてくる。
2人の影が足を止めると、妹紅の影から伸びた手が障子を開けた。紺色の上着から白い袖が伸び、手には文字というよりは文様と言った方がしっくりくるものが書かれた木製の棒を持っていた。頭に被った中国の官職にある
人を思わせる帽子の下には、深緑の短髪の少女の顔があった。顔立ちにはあどけない雰囲気があるものの、こちらを見透かすような群青色の瞳と口を結んだ表情はえも言われぬ威厳に満ちていた。
その少女は部屋に入ってくると、布団の横、つまり俺の隣に腰を下ろして正座した。障子を閉めた妹紅は俺を挟んで少女に向かい合う形で正座し、俺の肩を叩くと無言で自分の横の畳みを指差した。そこへ同じように座れ、ということだろう。
「いえ、そのままで結構です。一応、怪我人ですので」
少女がそういうと妹紅は俺の顔を一瞥してから、手を膝の上に戻して背筋を伸ばして少女に視線を戻した。
今の仕草は、せめて姿勢だけでも正せというところか。この小さいながらに逆らいようのない厳かな空気を作りだしている彼女は、やはりやんごとなき身分の方らしい。布団の上で、妹紅に倣い正座をする。
手の届きそうな距離で、少女と真正面から目を合わすことになった。
少女の双眸は、俺を見たまま微動だにしなかった。これが生き物の瞳だろうか、と思ってしまうほどに彼女の瞳は深く澄んでいる。曇りのない瞳という表現は陳腐かもしれないが、それしか思いつかなかった。
「話を始める前に、ひとつ確かめておきます。この家の庭で、弾幕遊びをしたのはあなたと藤原妹紅で
間違いありませんね?」
「えっ……あ、はい」
「そうですか、わかりました。藤原妹紅はわかるとして、あなたは私が誰だかわかりますか」
妙なことを聞かれた。彼女とは間違いなく初対面のはずである。そもそもつい数日前までの記憶しかないので出会う人は全て初対面だ。知っているわけもない。
その半面で、既知感も感じていた。今までも数度あったものだ。その感覚がもたらす単語を口にしてみた。
「……四季映姫さん……ですか?」
「さん、じゃない。様、だ」
黙っていた妹紅が呟くように言った。それを四季映姫が手で制する。
「その通りです。幾らかは記憶があるようですね。少々曖昧すぎるようですが。この際はっきりと教えておきましょう。私は四季映姫・ヤマザナドゥ。この幻想郷も管轄とする閻魔です」
それを聞いて、思わず絶句した。こんな少女が閻魔? いや、閻魔様か。それならば、この近寄りがたい空気を纏っていることになんとなく合点はいく。だが、にわかには信じ難いことだった。
「信じきれていないようですが事実です。私の自己紹介は済みました。では、あなたは誰ですか?」
俺はその問いに対する答えを持っていなかった。つい先ほどまで同じ内容のことを考えていたのだ。忌むべきことか、ここでは既知感を感じることができなかった。
「すみません……わからないんです」
言葉になったのは、絞りかすのようなか細い声だった。自分でも情けないと思う。
「なるほど。つまりあなたは自分に関することは何も覚えておらず、断片的に他人の氏名だけは覚えている、ということですね」
「そうなります」
「覚えていることは本当にそれだけですか? 嘘をつくのは貴方の為になりませんよ」
「間違いなく、それで俺の記憶は全部です」
「……どうやら本当に記憶喪失のようですね。それ自体は確かに哀れむべきことです。しかし、あなたがやったことは許されることではありません。この人里の中で戦いを行うなど言語道断です。その点については藤原妹紅も同罪ですが」
後ろに控える妹紅へ僅かに視線が移動するが、すぐに俺へと戻ってきた。
「聞けば、あなたは藤原妹紅の他にも此処の家主である上白沢とも弾幕遊びをしたそうですね。ほぼ何も覚えていない中で、弾幕遊びと木刀の扱い方だけは覚えていたということは、あなたは戦人だという可能性があります。もしもそうならば、生きていることが罪である人間が、更に罪の上塗りしているということに他なりません。事実が確定できない現状ではっきりしないことを言うのは性には合いませんが、その点を考慮して今後は善行を積むことは言うに及ばず。記憶が戻るまでに何をすれば良いのか、また
記憶が戻らないのならば、その身で何ができるのかを深く考えながら反省しながら暮らしていきなさい」
一言も挟む隙もなく、そこまで言い切ると小さな閻魔様はようやく言葉を切った。「善行を積む」という言葉の意味はわかる。だが俺にとって善行とはなんだろうか。
「あなたはもう結構です。次は藤原妹紅に話があります」
「あの、その前にひとつ聞いてもいいですか」
「いいでしょう。どうぞ」
「俺が積める善行ってなんですか。わからないんですけど」
「……あなたの鼓膜はどうも奥深くに埋もれているようですね。私の話を聞いていましたか? あなたにとっての善行を深く考えなさいと言ったのです。それともこの僅かな間に、深く考えることが終わったとでも言うのですか」
明らかに怒りを含んだ静かな口調の閻魔様に気圧されて、思わずしどろもどろの答えになる。
「え、いや、そう、じゃないんですが――」
「ならば、何だと言うのですか。あなたは思慮が足りなさすぎる。それとも、裁きを受けねば分からないとでも?」
「えっと、その、はい」
何者かに誘導されたかのように出た自分自身の答えに少し驚いた。それ以上に周りが驚いたのか、場には閑古鳥が鳴いている。
「……呆れました。ですが、良いでしょう。あなたがそれを望むのならば――裁きを受けて考えが変わるのならば相手をしましょう。ついてきなさい」
「は、はい!」
自分でも笑えるほどの活きの良い返事だった。閻魔様が部屋から出ていく。それを追う形で立ち上がった俺の肩を、妹紅が強く掴んだ。力任せに自分の方へ振り返らせると、胸倉を掴みあげる。
「お前、馬鹿か! 今からでもいいから土下座でもして謝ってこい! 私にだって歯が立たないのに閻魔様に喧嘩なんか売ってどうするんだ!? 勝機なんかないだろう!」
俺と喧嘩したときとは非にならない剣幕だったが、不思議と怖くはなかった。
そして、こんな言葉が口から転がり出た。
「やっぱり、俺は正気がないんですよ」
続く