#1
スィーンで戦火が上がり始めた頃。
リンの城門の外では兵たちが列を成していた。
軽装歩兵、重装歩兵、魔法師――各集団は装備もそれぞれでまとまりはなかったが、皆一様に銀色の腕輪を付けていた。全員の腕輪に一言の間違いもなく刻印されている“Whirlwind”の文字。それは彼らが所属する部隊の名前だった。
「ソウルライト団長、全員揃いました……あの2名以外は」
深紫の身の丈ほどもある盾と槍を背負い、それらと同色の重厚な鎧に身を包んだ黒髪の女性は兵たちの前に立つ男に無表情で告げると、煙草を深く吸いながら頷いた。
「……わかった」
まるで溜息のように煙を地に向かって吐いた。まだ幾分残った吸い殻を放り投げると、小さな魔法の稲妻を走らせてそれを灰に変える。彼の手にも銀色の腕輪が付けられていたが、他の者たちと一点だけ違い、部隊名より僅かな間隔を空けて“Master”という刻印が続いていた。
顔を上げ、眼光を鋭くして兵たちを見渡すソウルライト。
「レン、作戦内容は伝えてあるな?」
「はい」
「よし。ならここで細かい確認はしねぇ。一刻を争う事態になりつつあるからな。目的は通達があったようにロイドとシュウの救出。目標はフィアフル山だ。何か質問のあるヤツは――いねぇな?」
ソウルライトの言葉に兵たちは皆、首定で応えた。
「往くぞ――」
ソウルライトは低い声でそう発すると兵たちに背を向け、足を踏み出す。
その時だった。
「ちょっと、待って頂こうか」
兵たちの最後方――城門の方から声が上がった。ソウルライトの足が止まる。
声の主が誰であるか、ソウルライトに限らずその場にいた全員が分かっていたが、無視を決め込んでいた団長に倣って誰も振り向こうとしなかった。
「聞こえていらっしゃるのかな、リン国属騎士団“ワールウィンド”の団長、ソウルライト殿」
男の口調は、丁寧な言葉面とは裏腹に相手を見下したものだった。
部下を2名引き連れ、煌びやかな装飾が随所に施された仰々しい金色の鎧を身にまとった男が居並ぶ兵たちを押しのけ、歩を進めてきた。
ソウルライトの眉間にシワが寄る。
「何の用ですか、リン国立黄金騎士団長、“宝剣”のハンフリー殿」
振り返り、強い語調で応えるソウルライト。
「なんだ? その眼は」
ソウルライトと顔を合わすなり、難癖をつけた。
それも無理はないのかもしれない。
ソウルライトの目つきはまるで野生の獣のように敵意に溢れていた。
「出撃前で気が立ってるんだよ何の用だ」
「出撃? その恰好で、か」
ハンフリーは汚らしいものを見るかのような眼付きでソウルライトの出で立ちを見た。
闇に溶け込むかのような黒いジャケットとスラックス。ジャケットの下には鈍色の鎖帷子。首には宝石があしらわれたチョーカー。姿だけを見れば、確かに夜の街を歩いている水商売の男のようだった。その実、彼の身につけているものは全てただの衣服などではなく、戦闘に耐えうる耐久性と魔法効果を持ったものだった。
だが、その事実を知っていてもソウルライトの出で立ちは、体面を重んずるハンフリーには蔑みの対象でしかなかった。
「これが俺の装備なんだよ。文句があんなら後で聞くだけ聞いてやる。用があるならさっさと言え、クソが」
「ふん……下卑た言葉使いをしおって。やはり貴様は一皮剥けばそこいらのチンピラと変わらんな」
「用を言えっつってんだろ。こっちは急いでんだよ」
ソウルライトの言葉が喧嘩腰を通り越し、僅かに殺気を孕んできた。ハンフリーは忌々しげに睨み返す。
「いいだろう。この騒ぎはなんだ? 夜になろうかというのにワールウィンドの連中が集まって、何を企んでいる?」
「緊急事態だ。ウチの斥候2人が戻ってこねぇ。だからヤツらを助けに行くんだよ」
「馬鹿か貴様は。追加の斥候は出して確認はしたのか?」
「出してねぇ」
にべもなく答えるソウルライトに対して、ハンフリーは顔を苛立ちで歪ませる。
「そんなこともせずに貴様の兵士全てを投入して迎えに行くのか? 随分と過保護なものだな。たかだか斥候2名だろうが」
ハンフリーの最後の一言がソウルライトの癪に障る。眉根がつり上げ、殺気を膨らんでいく。
「……たかだか、だと?」
ソウルライトの瞳が攻撃的な色に染まる。今に斬りかかってもおかしくない剣幕でハンフリーへと踏み寄った。
「いいか、ハンフリー。連絡を断った2人はうちの斥候でも1番の腕利きと1番の足を持ってるヤツだ。例え、てめぇのトコの騎士団員総出で追っても余裕で振り切れるようなヤツらなんだよ。そいつらが定時を腐るほど過ぎても戻ってこねぇってことは超高確率でやべぇことが起こってるはずだ。俺達全員で行っても足りねえかもしれねえことがな」
「ほう、大きな口を利くな。だが、言葉遣いに気をつけろ……貴様の配下の斥候を捕まえるなど造作も――」
「てめぇは絡んでくる時と場合を考えろ。これ以上は時間の無駄だ。消えろ」
ハンフリーの言葉を遮ってそう吐き捨て、踵を返したソウルライトの右手は強く握り締められ、小刻みに震えていた。これ以上、ハンフリーの相手をしていたら流血沙汰になりかねないと判断し、話を強引に終わらせたのだ。ソウルライトがいつ飛びかかっても止めに入れるよう身構えていたレンも、彼が引いてくれたことにひとまず胸を撫で下ろすと共に、その心情を慮った。
今はハンフリーなどよりも優先すべきことがある。
周りにいたソウルライトの兵たちも足並みを揃えて進みだそうとした時、怒号が響いた。
「待たないか貴様っ! まだ話は終わってないぞ!」
どうやらあちらは我慢の限界を越えたらしい。無碍にされたハンフリーは言葉を荒げて背を向けているソウルライトに向かい、剣の柄に右手をかけた。その動作にワールウィンドの全団員が俄かに殺気立つ、が。
黒い風が、舞った。
ハンフリーの行動に対して1番早く反応したのはソウルライト本人だった。風を巻く速度で振り返り、剣を持つハンフリーの手を抑えつけ、魔力を帯びた右手をかざした。その動きにハンフリーの部下が反応するものの、既に身動きを取ることはできなかった。既にレンが牽制に入っていたからだ。1人には槍を喉元に突き付け、残る1人を盾の向こう側から眼光で射抜いていた。ここが戦場であれば、彼らは既に暗転する意識に永遠に飲まれていたであろう。
「おい……2度も言わせんな。時間の無駄なんだよ」
捕えた獲物の最後の威勢を刈り取る獣の唸り声のような、静かで怒りに震えた声だった。
ハンフリーは岩に挟まれたかのように腕を動かすことができないばかりか、押し返すことも引く事もできず狼狽する。最早、動かせる場所は口しかない。
「きさ――」
「黙れ」
最後に残した対抗手段さえ封じる。
それは完全に相手を上から押さえつける言葉――命令だった。
ついに気圧されたハンフリーには口を噤むこと以外できなかった。
「こっちは急いでるんだよ。そんなに俺と闘りてぇなら、てめぇの好きな時……なんなら出撃から戻ってすぐにでも好きなだけブチのめしてやる。だから今は邪魔をするな。もしこれ以上絡んでくるなら」
ソウルライトのかざす左手で、稲妻が存在を誇示するように爆ぜた。彼の言葉の続きは聞くまでもなく理解できた。
飢えた狼のような眼光に宿された、明らかな殺意。
もしもハンフリーが動いたのならば、その意思は実行へ移されることは間違いないだろう。相手に対して恐れを感じているにも関わらず、すぐに引き下がろうとしなかったのは彼が見栄と建前が重要視される世界で堆く積み上げられた自尊心のせいだった。
張り詰めた静寂が訪れる。
ハンフリーの一挙手一投足に注目が集まる中、声が響いた。
「隊長!」
声の方向は城門の松明が届いていない薄暗闇の中からだった。
聞きなれた、そして待ち望んだ声にソウルライトは反射的にハンフリーを突き飛ばす。無様に尻もちをつかされたハンフリーになど目もくれず、声の主の方へと駆け寄った。
「ロイド!」
待ち侘びた斥候が突風のように姿を現してソウルライトの目の前で急停止すると、苦労を労うこともなく、その胸倉を掴み上げた。
「てめぇ! こっちがどれだけ心配したと……おい、シュウはどうした」
ロイドは胸倉を掴み上げられても、平時のように茶化すこともなく、また荒く乱れた呼吸も整えることなく口を開いた。
「すまねぇ隊長……あいつは俺を逃がすためにあっちに残りました……カイエンの旦那は、クロです」
目に涙すら浮かべて、ロイドは絞り出すような声で言った。見れば身体の至る所に傷がある。ソウルライトは全身が粟立つのを感じた。嫌な予感が最悪の形で的中しつつあった。
「なんだと……」
「あの山ん中に部屋作ってとんでもない研究してます。口封じの為にモンスタまでけしかけてきました。帰りにもわんさか襲ってきやがって……隊長、力を貸してください! でねぇとシュウが、シュウが……!」
ソウルライトは嗚咽を我慢しきれなくなったロイドの胸倉から手を放し、両肩を力強く掴んだ。
「わかった。荒っぽくしてすまなかった。良く戻ってきたな。衛生班、すぐに手当てをしてやれ」
駆け寄って来る魔法師へロイドを導くと、地面に腰をついたまま呆気に取られていたハンフリーの鎧の襟を掴み上げた。
「おい、てめぇも今の話を聞いたな? 俺たちはすぐにクソモンスター共の討伐に出る。1匹も逃すつもりはねぇが万が一、こっちまで奴らが来たらそんときゃてめぇの仕事だ。手柄なら全部くれてやる。俺たちが戻るまで警戒態勢だけは解くな。わかったらすぐに戻れ」
再び乱暴にハンフリーを解放すると、2度と振り向くことなく自軍へ向けて激を飛ばした。
「全軍全速でフィアフル山へ向かう! 遅れるなよ!」
#2
「どうなってやがるんだっ、くそ!」
苦虫を噛み潰したような表情で言葉を漏らしながら冬青(そよご)の振るった大剣がムスケルの腕を斬り落とした。悲鳴を上げるムスケルを間髪入れずに稲妻の魔法が灼き焦がす。
「冬青、文句を言ってる暇があったらきちんと止めを刺せ」
「分かってるよ! けど、こんな数おかしいだろ……なぁ、どれだけ倒したよ?」
「50体を越えたところだ。最初の報告から考えると僕らだけでも既に約4分の1は倒したことになるが……200以上いるという報告を加味しても減っている気配がしないな。魔物は沸き続けていると考えた方がいいだろう。もしかしたら今回はどこかに首謀者が出てきているのかもしれない」
「見つけたら、とっ捕まえてぶん殴ってやる」
会話を交わしつつ、前方から聞こえる物音に対して身構えた。
冬青と彼の部隊、それに加えてレッドヒースが戦闘に参加して、既に30分以上経過していた。依然として闇の向こうからの物音、周辺から響く人とモンスタの悲鳴が止む気配がなかった。
彼らを含む部隊が参戦する前から始まっていたモンスタとの交戦は、確実に彼の部隊の人数を削り続けていた。
闇の中から一直線に光が走る。避け損ねた兵士が1人、声と共に地面へ倒れた。
「くそ、今度はサイモンかよ!」
光源に向かって突進する冬青。
「冬青、出過ぎるな!」
声をかけた時には、冬青は既にモンスタへ向かって飛びかかっていた。
レッドヒースと部下たちが続く。
「この野郎!」
冬青が放つ無数の斬撃が岩で出来た蜘蛛のようなモンスタ、サイモンを粉々に撃ち砕いた。
同時に左右に人の体を優に超える2つの影が彼を囲む。
影の正体は骸骨の身体に鎧を纏う悪魔、デビルナイトたちだった。その手に携えられたギロチンのように巨大な黒剣を振り上げられる。
刹那、声が響いた。
「【五花月光斬】!」
『うおおおお!!』
レッドヒースが左の1体を斬り伏せ、残る右の1体には冬青の部下たちが殺到する。窮地を脱した冬青が、まだ動こうとしている左のデビルナイトに止めを刺した。
「助かったぜ!」
「もう少し慎重に動け。夜の森の中はただでさえ視界が悪い」
レッドヒースは淡々と注意を促すと、表情も変えずに手を頭上にかざし、魔法詠唱を始めた。
「空に棲まいし神の怒りの欠片達よ、我が敵へ等しく裁きを与えたまえ――」
レッドヒースの頭上に生まれた巨大な雷の塊がうねりを上げると、タクトを振るかのように柔らかく手を振り下ろす。
「【ボルトシャワー】」
無数の青い矢が森の中に蔓延る闇を切り裂いた。
矢は雨さながらに暗闇の中に潜んでいたモンスタたちを、ただの1匹も外すことなく正確無比に穿っていく。着弾して弾ける光が異形の影が闇夜の中に照らし出した。
「俺はヒースみたいに器用じゃないから仕方がないんだよ」
冬青が地を蹴る。
「皆、下がってろよ!」
青の残光を目に焼き付けて、飛び込んでいった。向かう先は群れの中心。
大剣に込められた闘気は紅いオーラとなって、光の軌跡を残しながら冬青に随伴する。
「食らえ! 【スマッシュクラッシャー】!」
声と共に地に突き立てられた剣から眩い紅い光が溢れ、彼を中心とした5メートル四方を瞬く間もなく満たす。それと同時、空まで焦がすような豪快な爆炎が巻き起こった。激しい熱量と衝撃の餌食にされた無数のモンスタたちが跡形もなく塵になっていく。
剣を抜いて戻って来た冬青を部下たちが歓声を上げながら出迎えた。
「お前ら、歓声はまだ早えぞ。それよりも各自損傷を確認しろ。重傷のヤツは下がれ。すぐに次のモンスタが来るぞ!」
『了解!』
冬青の命令に威勢の良い声で返事をすると、部下たちはすぐに行動に移した。武器のチェック、装備の確認。衛生班が忙しなく走り回り、満足に動けないものは仲間の肩を借りて駐屯所へと帰っていく。
意識を森の奥へやり、耳を澄ませて気配を探る。
静謐。
一際、大きな音を響かせてしまったので、こちらに寄って来るモンスタがいるかと警戒したが、ひとまず息を抜く事ができそうだった。
それでもなお闇を睨みつけている冬青に、レッドヒースがポーションを差し出した。
「冬青も怪我はないか? 一応、飲んでおくと良い」
「ありがとよ。かすり傷しかないから構わないけどな。ヒースは?」
「僕も大丈夫。冬青のサポートに回ってたからね」
「心強いねぇ。俺も安心して暴れまわれるってもんだ」
「信頼してくれるのは結構だが、あまり出過ぎたら――」
レッドヒースは言いかけて、弾かれたように後ろを振り返った。
天まで届きそうな、1点の曇りもない白い光が現れていた。突如として現れたそれに視界が埋め尽くされる。
「これは……魔法障壁?」
目の前の光景に、レッドヒースの知識の中で適合する単語がこぼれ出てくる。但し、サイズが常軌を逸していた。軽い目測でも左右数キロに渡って展開されているようだった。
冬青は首だけ動かして光の壁を見ると、口端に笑みを浮かべた。
その反応を見ると、どうやら味方の仕業だということは理解できた。
「よぉし……第5部隊のジジイども、やってくれたな」
「第5部隊……? あの老練な魔法師の部隊だったか」
「ああ、そうだ。あいつらに防衛線を張ってもらった。ただの防衛線じゃない。あいつらの命をかけた魔法障壁だ」
「命をかけた……って、なぜそんなものを?」
問いかけに小さく肩を竦める冬青。
「ヒース、分かるだろ? この状況。今までとは段違いのやばさだ。龍眼(ロンガン)が出撃許可を国王にもらってたくらいだぜ」
「それは冬青を心配して――」
「違うね」
冬青は静かに、淀みなく言い切った。
「ヒースだって知ってるだろ、龍眼の勘の良さ。確かにお前の言う通り、あいつは俺を心配してくれたのは間違いない。けど、だ。きっとあいつは何かを感じとったんだろうよ。でなきゃ、俺らがいるのにわざわざ自分まで出られるように準備してた理由が見当たらない。流石の俺もそこまで信用を落とした覚えはないぜ」
「……」
幾ばくもけれんみのない声。
確かに龍眼の勘の良さには今までレッドヒースも助けられてきた。龍眼の勘は野生の獣じみたもので、こと危険性のある事象については、彼の知る限り外れたことはなかった。
レッドヒースは眼鏡のブリッジを人差指で押さえたまま、気難しげな顔で押し黙った。
そんな彼の肩を軽快な手つきで一つ叩く。
「まぁまぁ! そんな深刻な顔すんなって。命をかけたっつっても術者は魔法障壁の後ろにいるから攻撃は直接受けねえし、実験も見せてもらったけどそう易々とぶっ壊れるような代物じゃねえから。魔法障壁ごと吹っ飛ばすような攻撃でも受けりゃ全くの無防備だから危険かもしれんが、なんせあの第5部隊の頑固ジジイどもの術だ。ABS(エリアバリアシステム)なんか比べ物にならねえ強度に仕上がってるぞ」
饒舌にしゃべり、けらけらと笑う冬青。先ほど部下に対する顔とは打って変わって、日常風景みたいな笑顔だった。命を削る戦場だというのに、朗らかな冬青の顔を見て、ついついレッドヒースにも笑みがこぼれた。
考えに耽りがちで、どちらかというとマイナス方向へ思考が傾きやすい彼は、冬青のこういうどこでもマイペースな性格には助けられている。
「余程、あの魔法障壁には信頼を置いているようだな」
「そうだな、少なくとも俺はあれをぶっ壊せるような攻撃は知らねえよ。国が総力上げて必死こいても耐え切るんじゃねえかな。いや、ほんと頑固な性格がよく出てるわ」
また声を上げて笑う冬青につられて、レッドヒースも笑ってはいたが、心底、同調することはできなかった。
広大な展開範囲、冬青が信頼を置く程の強度。その両方を実現させて、且つ長時間の運用をするとなった時の術者にかかる負荷はどれほどか。
――あいつらの命をかけた魔法障壁だ。
今しがた聞いた冬青の言葉が、レッドヒースの中で反芻された。
守らなければならないものは、考えるまでもない。あの光の壁の向こうにある自分たちの国。そこで暮らす人々だ。けれど、なぜ冬青はわざわざ防御に特化した魔法を使わせたのか。
レッドヒースはその疑問に答えを出せなかった。
正確には、答えは出ていたが認めたくなかった。
「おい。また小難しいこと考えてんじゃないだろうな」
「えっ……ああ、すまない。なんでもない」
考えに耽ってしまっていたヒースは表情を隠す様に人差指で眼鏡を押し上げた。
自ら遮った視界の隅で、冬青は再び闇を睨みつけていた。
次に出した声は、一転して静かなものだった。
「大したことじゃないんだよ。俺らが勝てばいい……それだけの話さ」
噛みしめるかのような、深みのある声色。
ついさっきまでの和らぎは、闇の中へ溶けてしまったかのように姿を消していた。
冬青がそんな声を発するのはどういうときか。旧知の中であるレッドヒースは理解していた。そして、発せられた言葉の意味も。
認めたくなかった答えが正解であることを確信する。
――冬青は、文字通り決死の覚悟でこの戦場に臨んでいるのか。
どんな状況に陥ったとしても――例え自分たちがここで死ぬことになったとしても――モンスタの侵攻を食い止めることのできる手段としてあの魔法障壁を使う様に命じたのだろう。
「そよ――」
「ヒース」
視線を闇に向けたまま、冬青はレッドヒースの声を遮って名を呼ぶ。決して大きな声ではないのに、口を閉ざさざるを得ない圧力があった。
レッドヒースは、言葉を飲みこんで彼の言葉を待った。
「今は敵を倒すことだけを考えようぜ。どの道、今の俺らにそれ以外やることはないだろ」
レッドヒースは奥歯を噛みしめ、
「……ああ、そうだな」
とだけ答えると、ずれてもいない眼鏡をかけ直した。
指が、微かに震えている。冬青の覚悟を察してやれなかったことが、歯痒くて仕方がなかった。
黙り込んでしまった相方に、冬青は困ったように頭を掻いた。
「あのな、俺にだって勝算はあるんだぜ? 出撃前のことを思い出せよ……そろそろおいでなする頃合いだとは思わないか?」
冬青がにんまりと、悪戯っ子のような笑顔で言った。
出撃前のことを――冬青との会話、龍眼との連絡。
「あっ――」
レッドヒースが思い当ると同時に、伝令が走りこんできた。
「冬青副団長!」
息を切らせている伝令が不必要なほど大きな声で上官を呼んだ。顔は何故だかほころんでいる。
「なんだ。悪い知らせなら聞かねえぞ」
表情からどう見ても悪い知らせではないことは明白だったが、つい冗談が口をついて出てしまった。これで声色は真剣に聞こえるからタチが悪い。
「そんな……! あ、でも悪い知らせではないです!」
伝令が少しだけ狼狽したのを見て彼は笑みを浮かべていた。
レッドヒースが彼の意地悪に苦笑する。
彼らには、これから報告されることに予想がついていた。
「言ってみろ」
「援軍が、龍眼団長が御到着になりました!」
発言許可を得た伝令が飛び切り元気の良い声で言い放つと、人影が近づいてきた。
後ろで束ねた燃えるような赤い髪靡かせて、炎を具現化したような槍――ボルケイトスを携えた逞しい身体の持ち主が姿を現した。
「冬青、遅くなって済まなかった」
詫びの言葉をかけてきた男に、冬青は底抜けに明るい声で返事をした。
「はっ! もうちょっとゆっくりしてくれてもよかったんだぜ、龍眼?」
笑みを交わす。どちらにも安堵の色が見えた。
「こちらとしては家でゆっくりしておきたかったんだがな。状況はどうだ?」
「丁度、一区切りってとこだったよ。なんてこたねぇのに出張ってきやがって」
憎まれ口を叩く冬青に、龍眼は溜息をついた。
「お前なぁ――」
「嬉しいけど、正直に言うのが恥ずかしいんだよね?」
龍眼の台詞が途中で女性の声に切り替わった。不審に思った冬青は龍眼の左右、自分の周りを見るも声の主が見当たらない。
「おいおい、誰だそんなことを言うヤツは。おちょくってんのかぁ? 戦場で冗談を言うとかどういう神経してやがる」
さっき部下をおちょくって楽しんでたのは誰だ、とレッドヒースは顔をひきつらせていたが、それに冬青は気付く事はなかった。
声は眉をひそめる冬青に追撃をかける。
「おちょくったのは冬青が先じゃない。やーい、恥ずかしがり屋さーん」
「ラベイユみたいな甘ったるい声出しやがって……誰だ、物真似なんかしてるヤツは。手の込んだ悪戯しやがっ――」
「残念! 本当にラベイユでしたー!」
底抜けに明るい声と共に、龍眼の後ろから金色の髪を揺らして、女性がひょっこりと姿を現した。少女のような面立ちによく似合う、弾ける笑顔で冬青を見つめている。
目をしばたたかせる冬青。
ラベイユは、どうしたの? と言いたげに首を傾げてみせた。
「お、おい! 何やってんだよラベイユ! なんでこんなとこに来てんだ?! 龍眼、どういうことか説明しろ!」
「あー……それがな、ついてくるって聞かなくてな……うん」
龍眼が明後日の方を見て、頬を掻きながら言葉を濁した。
「聞かねえからって本当に連れてくるバカがどこにいるんだよ! ここは最前線だぞって――いてててて!」
1人大騒ぎをする冬青の右耳がラベイユによって力一杯に引っ張られた。苦痛の声を上げる彼に構わず、ラベイユは背伸びをして耳元で大声を張り上げた。
「そのぐらい知ってますから! それともなに? 冬青は私が来たのが不満だって言いたいの?!」
あまりの大声にその場にいた全員の注目が集まった。
部下たちの手前、さすがにこれはいただけないと感じた龍眼が制止に入ろうとした。
「おい、ラベイユ……」
「龍眼は黙ってて!」
一喝して龍眼を黙らせるラベイユ。こうなっては手がつけられない、と龍眼は諦めて流れに身を任せることにした。レッドヒースに至っては飛び火がこないよう、既に一歩引いて見守っていた。
「どうなの、冬青?」
「そうじゃねぇよ! もしもラベイユになんかあったら――ぐああああ!」
引っ張っていた耳に容赦なく捩じりを加えられる。より一層大きくなる冬青の悲鳴。
「じゃあ、私に何事もないようにしっかり戦ってよね! 返事は!?」
「わかった! わーかったってば! お前には指一本触れさせねえよ!」
「うむ! わかればよろしい」
冬青の宣誓に満足したのか、澄まし顔で解放するラベイユ。
戦場の最前線で行われた茶番とも言うべき展開に、兵士たちは呆気にとられていた。
その様子が気に入らなかったのか、ラベイユは駄々っ子のように頬を膨らませてやおら兵士たちの方を向いた。
小さな手を大きく挙げて、大声を張り上げる。
「はい、ちゅうもーーーく! 今ここに私がいて不満な人は手を挙げなさい!」
彼女の高い、しかし耳触りのよい声は間違いなく全員に行き届いた。それにも関わらず、兵士たちはラベイユを注視したまま反応がなかった。
「誰も手を挙げないの?」
再度の問いかけにもやはり反応がない。
レッドヒースは、上官たちが揃いも揃って手を焼くような相手に歯向かいたくない、という意識の表れだろうか、と兵士たちの心持を冷静に分析していた。
「ってことは私、ここにいてもいいのよね……?」
急にしおらしい態度になるラベイユ。上目使い気味に、兵士たちの反応を伺っていた。
引っ込み思案な少女が勇気を出しておねだりをするかのような姿に、兵士たちは顔を緩ませる。
どう贔屓目に見ても、骨抜きにされているのは明らかだった。
「それじゃ、私がここにいることを許してくれる人、手を挙げて?」
『はい!』
色んな意味で訓練された兵士たちは、活きのいい返事と挙手を揃えて答えた。
「えへへ……ありがと。みんな大好き。だから――」
悪戯を成功させて喜ぶ子供のような笑顔でそう言って、
「私が危ない目に合わないように、がんばってね♪ がんばった子には、任務が終わったらほっぺにチューしてあげるっ!」
愛らしい声で声援を送ると、最後にはウインクまでしてみせた。
既に頭の先までどっぷりとラベイユの術中にはまっているというのに、これがダメ押しになった。
『ひゃっほぉぉぉぉおおうううういいい!!』
地鳴りのような歓声に森が揺れるようだった。
もはやラベイユのオンステージと言っても過言ではない状況。
馬鹿騒ぎをする兵士たち。果たしてこれが戦場で目にする光景なのだろうかと、顔を見合わせる龍眼、冬青、ヒースの3名。
自分たちの部下とは言え、この単純さはどうだろうかと悲しさすら覚えた。このような事態を招く茶番を披露したのは他でもない、苦みを多分に含んだひきつり笑いを共有している3人であることは重々承知しているため、本来ならば強く叱責するところだがそんな気にもなれない。
何か諦観めいたものを感じる目で見守られていたラベイユが、興奮の渦中にある兵士たちを尻目につかつかと歩み寄ってきた。
「ほぉら! みんなもがんばるって言ってるんだから、あなたたちも私のチュー目指してがんばるの! 回復魔法と補助魔法で応援してあげるから! ねっ!」
悪意なんて欠片も無い、屈託の無い笑顔を捧げた。
お手上げとばかりに龍眼が優しく笑う。
「……全く、ラベイユには敵わないな」
そうぼやきをこぼす龍眼だったが、彼女の笑顔を見ていたら、本当にここが戦場であることを疑いたくなった。その一方で、ひとつの決意が固まっていく。
ふと、レッドヒースが龍眼に耳打ちをしてきた。
「龍眼、そろそろお前が占めろ。さすがにこのままでは示しがつかない」
「ああ、わかってる」
そう答えたものの、今更、示しもへったくれもない気がしないでもない。兵士たちを見やれば各所で目の前の任務とは全く違う方向に気合の入った雄叫びが上がっている。そんな現状に龍眼は深々と嘆息せざるを得なかった。
「よし、まずは俺に任せろ」
龍眼が言葉を選びあぐねているところに、不敵な笑みで冬青が名乗りをあげた。
勇ましい足取りで冬青が兵士たちの前に立つ。
「おっしゃあああああ! お前らあああ! ラベイユが好きかーー?!」
拳を空へ突き上げての大絶叫。
その内容に、比喩でもなんでもなく龍眼とレッドヒースがずっこけた。ついに上官の威厳をかなぐり捨てたか、とさえ考えてしまい、情けなさにレッドヒースはずれた眼鏡を直す気にもならなかった。
しかし、兵士たちの反応は彼らの心配などどこ吹く風であった。
『おおおおおおおーーーーー!!』
空に轟く鬨の声。
いつモンスタたちが襲ってきてもおかしくない場所で、力の限り悪ふざけに走る戦友の後ろ姿を遠い目で見つめることしかできない龍眼とレッドヒース。無論、その表情を見る事がなかった彼の煽りは止まらない。
「チューをしてもらいたいかあああーーー!!?」
『おおおおおおおおおおおーーーーー!!!!』
「それじゃあ、気合入れてモンスタどもをぶっ飛ばすぞ! ラベイユにはヤツらを近づけるなぁぁ!!」
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーーー!!!!!!!!』
かつてないほどの気迫を見せる兵士たちの雄々しい、しかし若干誇りがたい姿がここにあった。
「単細胞ばかりだな」
「ああ、あんなしょうもない約束でここまで元気になるとはな……ヒース、俺は今泣きそうだ。感動とは別の意味で」
「奇遇だな。僕も涙が出そうになっていたところだ」
盛り上がる冬青以下全兵士を、重病末期患者の様子を目前にしているかのような目で見私っつう話し合う龍眼とレッドヒース。耳聡く聞いていたラベイユが、口を尖らせて2人をじろりと睨みつけた。
「しょうもない約束で、なにか文句あるの?」
『いいえ、なにもございません』
「よろしい」
即答で2人同時に白旗を挙げた。
結局、この2人もラベイユには逆らえなかったのだった。
それでも、龍眼は微塵も面倒くさいだとか、煩わしいなどと言った感情はなかった。
むしろ、彼の心の中を占めていた感情は喜び。
例え戦場であろうとも、彼女の笑顔を見られることが何よりもかけがえがないと。
今日の戦いにはなんとしてでも勝つと、そう思えた。
――なんだ、俺も兵士たちと何も変わらないじゃないか。
笑みが、溢れてくる。
抱えていた不安や恐れが溶けていく。
不思議と、心と身体が軽くなった気がした。
「龍眼、何を惚けてんだ」
いつのまにか、隣に戻ってきていた冬青が龍眼の肩を叩いた。
「ほら、団長様。兵士どもは意気軒昂、イケイケゴーゴーだぜ」
「全く……」
龍眼は苦笑交じりに応えると、背中を押しだす様に軽く叩かれた。
振り返るとレッドヒースが眼鏡を人差指で押し上げながら、
「誰かさんが悪ノリさせすぎたからな。最後はきちんと締めてくれ」
と、澄ましたように言ったが、眼鏡の奥の瞳では笑っていた。
今度は胸を突かれる。顔をそちらへ向けるとラベイユが龍眼を見上げていた。
「かっこいいとこ見せてね、だーんちょー!」
これから部下たちの前に立たなければいけないというのに、力を抜かれるような朗らかな笑みが向けられていた。緩みそうになる自分の頬を慌てて引き締める。
「お前こそ、俺から目を離すなよ」
直後、ラベイユが一瞬だけ肩を震わせて、笑みが消える。
月灯りの下で、顔がほんのりと紅潮していくのが見て取れた。
彼女から、視線が離せない。
ゆっくりと、花開くように微笑みを浮かべるラベイユ。それは先ほどのあどけない少女のようなものとは違い、誰の目にも明らかな、愛しいものを見る表情だった。
「うん……ちゃんと、見てるよ」
噛みしめる様に、名残惜しむかのように緩やかな言葉が紡がれる。
それは龍眼の心臓に大きく脈を打たせ、声を奪ってしまった。
茶化してきたラベイユに、少しだけ仕返しの意味を込めた返事をしたつもりだったのに。
まさか、こんな反応が返って来るなんて。
今すぐにでも右手に持っている槍を捨てて、彼女を、この手で――。
「龍眼?」
「――え?」
夢から覚まされるような感覚で、龍眼が声を漏らした。
ラベイユが不思議なものを見るような顔で覗き込んできていた。
「どうしたの? みんな待ってるよ」
「え……あ、ああ」
「もう、しっかりしてよね。団長さん」
「わかってる」
早口で答えて、精いっぱい真面目な顔を取り繕うと兵士たちを視界に収めた。
注目を集める為に柄尻を地面に突き立てると、空を向く紅い穂先が月光を鈍く照り返した。
「聞け!」
龍眼の声に、落ち着きのない子どもたちのようにはしゃいでいた兵士たちが、水を打ったように静まり返った。
「今日の戦いは、今までの発生量とは規模が違う。残念ながら既に重傷者も多数出ている。そう易々と終わりを見ることはないだろう――だが、我々に退く事があってはならない」
柄尻で地面を強かに叩き、語気を強める龍眼。
「今日こそ全てのモンスタを駆逐し、元凶を断つ! 各自装備の最終確認を怠るな。合図と共に俺が先陣を切る! いいか?!」
『応っ!!』
龍眼の声に応えるものに、顔をゆるませているものはいなくなっていた。
兵士たちの鋭い表情に、小さく頷く。
「よしっ、準備にかかれ!」
龍眼は言い放つと兵士たちに背を向け、冬青、レッドヒース、ラベイユの下へと戻って来た。
レッドヒースが神妙な面持ちを向けて来る。
「龍眼。元凶を断つ、とはどうするつもりだ」
冬青とラベイユが隣で頷いている。これまでも、証拠はおろかまともな手がかりさえ掴めていないのに彼はどうするというのか、ここにいる3人ならずとも気になるところであった。
「モンスタの発生地点まで進軍する」
彼の答えは漠然としていた。発生地点などはっきりと分かっていれば発生に備えて警戒したり、こうして迎え撃つことなく、解決に向かう糸口を得ているはずだ。
だが、レッドヒースだけは得心のいった、そして険しい表情を浮かべた。
「なるほど……証拠は何も無くとも、見当はついている、か。僕の予想を信じるんだな。いいのか。下手したら国境を越えることになるぞ」
「必要であれば、それも厭わない。これだけ規模の大きいモンスタ発生なんだ。こっちにだって今までの分を加えずとも相当な被害が出ているからな。何より、これ以上好き勝手にさせておけない」
「本気だな……わかった。僕はもう何も言わない。龍眼に任せるよ」
「ありがとう、ヒース」
「おいおい、俺を仲間外れにすんなよ……と、言いたいところだがお前らが言ってるのはこの間のことで合ってんだろ?」
龍眼とレッドヒースが全く同時に頷いて見せた。
冬青が静かな声で、レッドヒースと入れ替わって龍眼へ迫る。
「本当に見つけられるのか? 証拠もなしに突っ込んで国境越えて、実は間違いでした、なんて通じないぜ?」
「国境を越えることに関しては、国王にも話してある。庇いきれるかどうかは結果次第と言われたがな。だが、止めろとも行けとも言われていない。俺の判断に任せてくれるということだと解釈しているよ。そして、モンスタの出現地点はこの間のレッドヒースの予想通り、フィアフル山だと俺も思う。目視ではあるが、ここに来るまでに戦火に混じってフィアフル山の麓から光が上がったのを見た。松明とか攻撃魔法とか、そういう類じゃない。せめてその光の発生源までは行くつもりだ。犯人はいなくとも魔法陣の後か魔力の痕跡くらいは見つかれば、なにか尻尾を掴めるかもしれない」
冬青は龍眼の眼から一瞬たりとも視線を離さずに、一言一句を聞き届けた。
近くにいたラベイユの頬を冷たい汗が流れる。
それほどまでに冬青の眼差しは強く、まるで刃を向けているかのように感じられた。
「分の悪い賭けだぞ。わかっているのか」
念を押す声は静かというよりは氷柱のような鋭さと冷たさを秘めていた。
「百も承知だ。頼む。ついてきてくれ」
龍眼は真っ向から答える。冬青を氷柱とするのならば、彼の言葉は燃え盛る炎のような熱さがあった。成り行きを見守るラベイユは唾を飲み込む。
数秒の時を挟み、冬青が参ったというように表情を緩めた。
「OK。どうやら本気も本気らしいな。ま、冗談じゃそんなこと言えねえか」
「当たり前だ」
龍眼も表情を緩める。
「宜しく頼むぜ、団長様。進軍方向は全部お前に任せるよ」
冬青は肩の高さに掌を上げて、龍眼とタッチを交わした。
「じゃあ、合図頼むぜ。俺はいつでもいける」
「ああ。ヒース、ラベイユ。準備はいいな?」
「待ちくたびれたよ」
「私も大丈夫」
「よし……行こう!」
龍眼が数歩進み、全軍を背にする。
細く長い深呼吸。目を閉じて心を静める。龍眼の足元から紅い、炎とも闘気とも見分けのつかない光が揺らめく。それはうねりを上げ、瞬く間に彼の全身を包み込んだ。
「龍気発祥――【バーサーク】!」
龍眼が槍を空へ向けて突き上げると、爆薬が爆ぜるような重い音と共に紅い光が弾け飛ぶ。
足元には彼を中心として炎めいた円環が描かれていた。
「全軍、前進始め!」
龍眼が合図と共に足を踏み出した。
【バーサーク】によって生まれた光は、龍眼の周辺を明るく照らす。
それを道標に、スィーン軍の行軍が始まった。
*
夜の静けさをかき消す轟音が響き渡っていた。それも断続的に何度も。
ソウルライトが目標地点を目指す足どりを変えぬまま、目だけ音の方向を見やる。
大して視線の移動をする必要がなかったことから、ひとつの懸念が脳裏をよぎる。
「隊長」
顔をしかめていたソウルライトの隣から、それを察したレンが赤く焼かれた空と上司を交互に見た。
「分かってる」
忌々しげに舌打ちをして、行軍速度を上げるソウルライト。
「この音と、あの明かり……スィーンのくそったれどもが出てきてやがるな。くそっ、こんなときに面倒くせぇことが起きてやがる」
ソウルライトが毒づく間にも、またひとつ轟音が上がり、夜空に浮かぶ星たちを覆い隠す煙が上がった。段々と光と音の届いてくる時間の誤差がなくなってきている。音源と距離が縮まっているのは間違いなかった。
「どこの部隊でしょうか」
「十中八九、龍眼だ。遠くからでも聞こえるほどの爆音で猪みてぇに勢いで進軍してやがるところを見るとそれ以外に考えられねぇ」
「“荒ぶる龍”ですか……一戦交えるとなると面倒ですね」
「この上なく、な。場合によってはあんまり会いたくねぇヤツだ」
ソウルライトたちの進む道が段々と広くなり、彼らはとある広場に辿りついた。
片隅には小さな宿舎。数度に渡る爆音が近付いてきているというのに明かりがついていないところを見ると誰もいないようだった。宿舎の横には山から掘り出した不要な鉱物が山の如く詰まれていた。
眼前には悠然と立つフィアフル山。
ソウルライトたちの目標地点にして、リン、スィーンの両国の間で燻ぶる火種がそこにそそりたっていた。
「全軍、止まれ」
ソウルライトの合図が部下たちへ瞬く間に伝わり、行軍が止まった。
無数の足音と怒号が響いてくる。音の主は1人ではなく複数。それも10人や20人ではきかないほどの数だと推測できた。
「警戒しろ。これから何が始まってもおかしくねぇ」
命令を下し、ソウルライトがシエンブレイカーを肩に担ぐと同時だった。
広場の片隅から光が漏れ、爆炎と共に粉々になった木々と何かの破片が所狭しと飛び散ると、続いて炎めいて紅く輝く光の塊を筆頭に、兵士たちが次々に躍り出てきた。
ソウルライトの部下たちに緊張が走り、そこかしこで武器を構える金属音がする。それを他所に、ソウルライトはまた舌打ちをした。
「待て」
下したのは静止命令。
身構えていたソウルライトの部下たちは意外な命令に微かな戸惑いの色を見せた。
光の塊が動きを停める。動いていなければそれが何か判別することは容易だった。
「やっぱりてめぇか……“荒ぶる龍”」
「お前は……“黒風の狼”か」
無造作に近寄るソウルライト。
申し合わせていたかのように歩を進める龍眼。
お互いに間合いに入る一歩手前で足を止めた。
両者の対峙を、嵐の前のように静まり返ったフィアフル山が見下ろしていた。